テーマ活動

平和・国際委員会だより

2017年8月16日 「大戦、広島、フクシマ後の『今』を生きるちから」を開催
8月8日(火)、平和・国際委員会とピース・インターテーマグループが共催で「大戦、広島、フクシマ後の『今』を生きるちから」を開催しました。

<元日本兵 中島力さんのお話>

 大正2年生まれで御歳91歳の元日本兵・中島力さんに当時の状況をお話いただきました。
 中島さんは昭和18年、19歳の時に海軍に志願し、南洋トラック島に配属されます。トラック島は珊瑚によって出来た環礁に囲まれた形状からアメリカ軍の上陸こそ免れますが、終戦までの断続的な空襲により海岸付近倉庫にあった食料はやられてしまい食べ物に大変苦労されたそうです。
「志願した当時はいい情報ばかりあり、戦争に勝っていると思っていた」当時を思い出し中島さんは静かに語ります。

「年3回実るさつまいもを育てたが足りず、若い兵隊が次々と栄養失調で亡くなった。『お母さん、ご飯食べたいよ』と言って冷たくなっていく。自分自身も痩せすぎていて、なくなった戦友を葬るために担ぎ上げることもできなかった」

  終戦後、グアム島で捕虜収容所を経て日本へ帰還。「終戦を知ったとき、家に帰れば生きてお母さんに会えると思い手を叩いて喜んだ」

 日本への帰還後、国鉄に入り民営化の先頭にたって全国を回ったそうです。 「生きて帰ってきて本当に良かった。あの経験を無駄にしてはいけない。勝つ、負けるではなく戦争はしてはならない」戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて教えていただきました。



<DVD「核の傷 肥田舜太郎医師と内部被曝」上映会>

 軍医少尉として広島陸軍病院に赴任していた肥田舜太郎医師は28歳のときに爆心地から6km離れた広島県戸坂村で被爆。自身も被爆しながらも、他の被爆者を救援・治療されました。
原爆投下からから数週間後、直接放射線を浴びていない人も高熱、紫斑、吐血などの症状で多くの人が亡くなりました。当時は原因がわからず、戦後30年を経てスターングラス博士の著書『低レベル放射能』を元に低線量被曝という答えに辿り着きます。

そもそも、原爆が落とされた理由がソビエト連邦への威嚇と人体実験であることは日本の学校ではほとんど教えません。屋外に多くの人が出ている時間を調査し、計画的に8時15分に投下させた原子爆弾。放射線でどのくらいの人が亡くなるかアメリカは原爆投下後の広島で調査を行っており、低線量被曝の影響を意図的に隠してきたと言われています。
「どれくらいの放射線が人体にとって限界なのか、広島、長崎での調査を元に、アメリカの原爆障害調査委員会(通称ABCC)が決めている。ほんの少し体内に入った放射線の粒がどれだけ人体に影響を与えるのか、科学を名乗った最も権威のある集団が嘘をついているのです」と肥田医師は訴えます。

 1945年以降も世界中で数千回の核実験が繰り返され、原爆被爆の影響による癌で死亡した人数は6100万人に達するとも言われています。肥田医師は2009年まで被爆者を治療する傍ら、核廃絶運動にも献身されました。その後も、自身の被爆体験と治療にあたった経験を元に低線量被曝、内部被曝についての執筆活動や講演を日本全国で続けられました。


映画『核の傷』

<DVD「311以降を生きる」上映会>

 肥田医師は「福島第一原発事故が起きたとき、今後広島、長崎と同じことが起きると思った」と語ります。
福島第一原発から日本全国へ放射性物質を放出し続けており、原発を止めないと安全な場所は日本にはありません。放射線は目に見えず、臭いもなく、触ることができません。 直接放射線を浴びるだけでなく、水の中や野菜の表面に付着している放射性物質が体内で放射能を出し、体の中から破壊していく内部被曝への危険性を訴えます。

「自分の命を大切にしてください。命の持ち主である自分の命の主人公になって、病気をならずに生き延びるために、知っている限りの体に悪いことを一切やらない。 そして、病気にならないためには ① 太陽と一緒に起きて、寝る ② 3食きまった時間に食べる ③ 30回噛む ④ トイレに座ったらすとんと出す」

最後は「次世代のためにも原発は全て止めたい。全力で核兵器廃絶へ働きかける」という力強い言葉で締めくくられています。
 
映画『核の傷』

 中島力さんの戦争体験のお話と、肥田医師のお言葉から、戦争や核物質がもたらす非人道的な状況からいかに生き抜いていくべきかを考える貴重な機会となりました。市民が戦争に利用されたり、内部被曝の犠牲者となってしまうことを避けるために、まずは正しい知識を身に着け、自分自身を守っていく努力が大事であると感じました。

次回開催予定 9月12日(火) 会場:リリックおがわ  歴史に学び平和を考える 三橋教授の近現代史講座 台湾と沖縄、奄美の近現代史